アリスとしてもソロでも音楽業界で活躍していた歌手の谷村新司さんですが、2023年10月に亡くなりました。
そんな谷村新司さんの国籍が中国籍ではないかと噂になっているので詳しく解説していきます。
目次
谷村新司の国籍が中国籍といわれた理由が判明!
引用:スポニチ
谷村新司は、独特な顔立ちから時折「外国人ではないか」と思われることもありましたが、実際には日本・大阪出身の純粋な日本人です。
彼が国籍に関して誤解されることがあったのは、彼自身が
「過去生は中国人だったかもしれない」
と発言したことや、
中国の「上海音楽学院」で常任教授を務めた経歴が影響していると考えられます。
引用:上海音楽学院
また谷村新司さんが亡くなった時には中国のニュース番組でも取り上げられるほどの人気でした。
引用:中国国際放送局
このため、彼の国籍が中国であるという誤解が広まったこともありましたが、実際には日本国籍の持ち主です。
確かに自分で「過去生は中国人だったかもしれない」と発言すると、日本国籍であってももしかすると中国籍ではないかと勘違いしてしまいますよね。
谷村新司と中国は2004年から深い関わりを持つ
引用:人民中国
谷村新司が中国との深い関係を持つようになったのは、1981年に北京で行ったコンサートから始まりました。
このコンサートは、中国にポップスを初めて紹介する歴史的な出来事となり、約2万人の観客が参加しました。
当初、観客は「ノル」という感覚を理解できずに戸惑いましたが、谷村がリズムを取り、当時の鄧小平氏が手拍子を始めた瞬間、会場全体が一体となりました。
この経験は、中国音楽界において新たな時代を切り開くきっかけとなりました。
谷村の代表曲「昴(すばる)」は、中国やアジア全体で愛される楽曲となり、2008年の北京オリンピックでも各国元首が集う昼食会で演奏されました。
この曲は谷村が幼少期から抱いていた風景を元に作られ、彼自身が「中国大陸に縁がある」と感じることも少なくありませんでした。
2004年には名門・上海音楽学院からの依頼を受け、同学院の常任教授として若者に音楽を教える役割を担い、月に一度のペースで訪れていました。
引用:日刊スポーツ
中国の学生たちとの交流を通じて、谷村は音楽だけでなく、人生や感謝の心についても深く学びました。
学生の一人が両親に感謝を伝えたいという言葉に触れ、谷村自身も日本では忘れられつつある大切な価値観を再認識したと語っています。
また、谷村は中国との出会いを「過去生」にも感じ、幼少期から中国への興味を抱いていたことを振り返ります。
彼が中学生の時、偶然にも地元で開催された「中国貿易展」に足を運び、ジャスミン茶を買った経験が彼の中国への親しみの始まりだったかもしれません。
谷村は、2007年の日中国交正常化35周年を記念して上海と南京でコンサートを成功させ、南京芸術学院の名誉教授にも就任しました。
彼は、日本と中国が互いの感性や文化をより深く理解し合う必要があると強調し、オリンピックや万博のような大規模なイベントが人々の交流を促進する貴重な機会であると考えています。
特に、上海万博が開催される2年後を「中国にとって学びのチャンス」として、未来への期待を寄せていました。
昨今では中国市場が大きくなり、日本の芸能人も中国のSNSなどを活用しファンを獲得するなどの動きはありますが、まだ2008年頃まではここまで中国と交流する芸能人が少なかったので、国籍が中国であると噂されるのも仕方ないのかもしれないですね。
ここまでは国籍がなぜ中国人と言われる理由になったかをまとめました。
お次は実家や家族についてです。
谷村新司さんは大阪府生まれではありますが、大阪府でも韓国や中国といった地域がありますので、どこの生まれなのか。
そして両親の父親と母親が日本人ではなかった可能性についても調べてみました。
谷村新司の実家の場所は大阪府住之江区
谷村新司さんの実家は現在、大阪市住之江区にあるとされていますが、彼が生まれた当初からそこに住んでいたわけではありません。
谷村さんが生まれた当時、実家は大阪府河内長野市にありましたが、彼自身にはその記憶はないそうです。
3歳の頃に、家族は大阪市東住吉区桑津へと引っ越しました。
その後、最終的に谷村さんが「出身地」としている大阪市住之江区で生活を始め、そこに落ち着きました。
このように、谷村さんの幼少期は複数の地域を経て、現在の住之江区に至ったのです。
ちなみに実家は金持ちだということはこれから紹介する父親と母親の職業をみていただければわかります。
谷村新司の家族構成は5人
引用:X
谷村新司さんの家族構成は5人で父親・母親・兄、姉、そして末っ子の谷村新司さんです。
谷村新司さん自身の国籍は日本であることは間違い無いのですが、父親か母親がもしかすると日本人ではない場合のありますので、念のため調べてみました。
父親について
谷村新司さんの父親、谷村新蔵さんは奈良県出身の実業家で、1989年12月に亡くなっています。
谷村さんが41歳の時のことです。
新蔵さんは、録音会社や洋服の付属品を製造するビジネスを経営しており、戦後の時代にも関わらず、比較的裕福な家庭環境で谷村さんは育ちました。
また、株式市場でも相場師として活躍し、投資家相手に収益を上げるほどの成功を収めていました。
ネットの情報で「録音の会社」と「洋服の付属品を製造する会社」の2つの噂があり、どちらの会社も経営していたか、もしくわどちらかだけ経営していたそうです。
新蔵さんはもともと奈良県に生まれ、大阪に丁稚奉公に出た後、商売の暖簾分けのような形で独立し、自分の店を持つようになりました。
その後、大阪で谷村さんの母親と出会い、家庭を築きました。
谷村新司さんは、父親への思いを込めた楽曲「父への遺言」を作ったことがあり、その歌詞の内容からも、父親への深い愛情や敬意が感じられます。
この曲は、おそらく彼自身の父親に捧げられたものと推測されています。
母親について
谷村新司さんの母親は、日本の伝統音楽である「長唄」の三味線奏者として活動していました。
谷村さんの幼少期から、音楽は常に身近に存在しており、彼の音楽的な基盤を築いた一つの要素となっていたようです。
母親がどれほどの技量を持っていたかは明確ではありませんが、長年にわたって三味線を弾き続けていたことから、ある程度の人気と評価を得ていた奏者であったと考えられます。
このような音楽に包まれた家庭環境が、谷村さんの音楽キャリアに大きな影響を与えたのかもしれません。
13歳年上の兄について
谷村新司さんには13歳年上の兄がいて、幼少期から頼りになる存在だったといいます。
谷村さんが中学生の頃、好奇心から「エ◯本が見たい」という理由で不良グループに参加し、そのグループには兄も所属していました。
兄からエ◯本を回してもらったことがあり、兄の影響を受けていたことが伺えます。
その後、兄がどのような職業についていたのかは明らかにされておらず、谷村さんも兄についてはあまり詳しく語ることがありませんでした。
3歳年上の姉について
引用:アメブロ
谷村新司さんの3歳年上の姉の平尾美智世さんは幼少期から「地歌舞」を習い、優れたセンスを持っていたそうです。
彼女は中学生の頃にはすでに「名取」の資格を取得し、生徒に舞を教える先生をしていました。
母親が三味線を弾いていたこともあり、谷村家にはいつも着物姿の女性が集い、伝統文化が身近にあったといいます。
自宅には馴染みの呉服屋が頻繁に訪れ、反物を広げて見せてくれることもあったため、着物や日本文化に囲まれた環境で育ちました。
このような伝統文化に触れながら育ったことが、谷村さんの豊かな感性に影響を与えたのかもしれません。
谷村新司さんは5人家族で、両親は日本人であることがわかりました。
最後までお読みたいだきありがとうございます。
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